西彼町の文化財(史跡)

平原キリシタン墓碑(県指定)  1972年(昭和47年)8月15日
平原キリシタン墓碑

平原キリシタン墓碑1
西彼町平原郷に所在する墓碑。
平原郷の相川家の祖先である相川勘解由左衛門尉義武は朝鮮出兵後に形上(旧琴海町)に住んでいたが、2代藤左衛門の時に平原に移住した。時期は明確ではないが、この墓碑は形上から平原に運ばれてきたものであるらしい。

文化財に指定されている2基のうち、1基は緑色片岩製で墓碑面中央に花十字の紋、その上に「♦I♦N♦R♦I」と刻まれている。
INRIとは“Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum(ユダヤの王・ナザレのイエズス)”の意を表す。その背後に、結晶片岩の墓碑がもう1基立つ。正面は削られており、裏面に「慶長十八年七月一日」と刻まれている。
< 所 在 地 > 西海市西彼町平原郷山口原1271番地
白栄山泉浄寺跡(市指定)  1971年(昭和46年)9月30日


白栄山泉浄寺跡
鎌倉末から室町にかけて建立されたという真言宗の寺院。本堂、奥の院、鐘楼、山門などが備わり、堀をめぐらしていたと伝わる。字名として、寺山、堂山、坊主原が残る。また、卒塔婆の辻、寺の前などの地名も残る。

永禄年間(1558〜1569)まで、その地の信仰の中心であったと考えられている。
キリスト教に帰依した大村純忠の命によって焼き払われ、僧侶は坊主原で惨殺、住職の首は卒塔婆に突き刺され卒塔婆の辻にさらされたという。

墓地跡と伝わるところから出土した墓石の残片が、小堂にまとめられて供養されている。なお、『郷村記 大串村之内中山村』古寺蹟之事には、「白榮山 泉淨寺 莊屋より未の方行程貳町半程の處に有り、今ハ田畠となる也、地名鳥居の内と唱」とある。
< 所 在 地 > 西海市西彼町中山郷2062番地2
四本堂とお茶ノ水(市指定)  1971年(昭和46年)9月30日

四本堂・御腰懸石 













お茶ノ水
■四本堂(御腰懸石)■

994(正暦5)年、大村家の始祖遠江権守直澄が肥前国藤津、高来、彼杵の3郡を朝廷より賜り、伊予の国大洲より移った折、海路をたどり上陸した地といわれる。『郷村記 大串村之内下岳村』腰懸石之事附御茶の水之事に、「腰懸石 下岳莊屋より子の方母衣崎俗語でぼら崎と云所の海邊にあり、上の角石壹間方、下の石長壹間壹尺、横壹間、石の廻り四方に石柱四本を立、中に標石あり、御腰懸石と云銘を鐫寛政年中信濃守純鎭建之側に古松貳株あり、腰懸松と云、是ハ正暦五甲午年大祖遠江權守直澄、藤津・彼杵・高來の三郡を賜り、伊豫國大洲より始て彼杵郡大村へ入國の時、先大串の浦に至り下岳村ハ大串村の内也暫く船繋して陸に上り鎧を着し、此石に座し、母衣をすすむ、故に以後此所を母衣崎と云、座する所の石を直澄腰懸石と云なり、追々大串浦の椎野氏 椎野氏ハ大串村の莊園を司るものと云を始、鄰村の民長等出迎ひ、着郡を祝す、直澄則大串村の者を海路の案内者として、同郡久原の里寺嶋に着船すと云云」とある。


■御茶の水■

腰懸石より西南200bの磯辺にある。深さ50a、50a四方ほどの井戸。直澄が上陸したとき、その井戸より清水を汲み、茶を供したという。『郷村記 大串村之内下岳村』腰懸石之事附御茶の水之事に、「御茶の水 腰懸石より壹町程、南の方 磯邊森の内にあるC水なり、傍に切石の柱を立、御茶の水と云ふ銘を鐫る、此C水先年ハ御茶上りのC水と云、寛政六年、信濃守純鎭御茶の水と改唱す 右母衣崎腰懸石・御茶の水の兩所當村の給人澁江瀧平支配となり、掃除夫として下岳膝行神の内より郡役夫一ケ月ニ壹人宛出之、且神酒料として一ケ月に拾貳銅宛同役所より興止之」とある。
< 所 在 地 > 西海市西彼町白崎郷574ほか
大串金山跡(県指定)  1971年(昭和46年)9月30日

大串金山跡 

大串金山は、西海市西彼町喰場郷、鳥加郷、大串郷周辺で採掘された金鉱山の総称である。
喰場郷字中ノ島には高さ1.7m、幅0.7m、奥行150m余の坑道を含め3箇所、鳥加郷では字金山・コウモリ谷・平島・湧上リの海辺に坑口が残る。
大串郷では、坑口はほとんど塞がれている。

大串金山については『郷村記』『大村見聞集』に記事があり、寛永4年(1627)から約40年間が最盛期で、寛永8年9月に大村藩は産出した金約7貫933匁(約30キログラム)、銀約70貫480目(約260キログラム)を江戸城西丸御納戸衆へ納めている。

大串金山では石英採掘による山金と石英が風化崩壊して海岸に集積した砂金とが採取された。この地域では、江戸時代以後も昭和に至るまで断続的に金の採掘が続けられた。
< 所 在 地 > 西海市西彼町喰場郷、鳥加郷、大串郷
伊ノ浦台場跡(市指定)  1971年(昭和46年)9月30日


伊ノ浦台場跡
「台場」とは、要害の地に土・石で築いて大砲を据え付けた砲台である。

大村藩第12代藩主純熙の業績を記した『台山公事蹟』に”大村湾の入口の海峡、伊ノ浦の岸の上に新しく三箇所の台場を築き、それぞれ十八封度(ポンド)、二十四封度の大砲を備え、その土地の砲兵に管理させた”との記事がある。
大村藩の藩政記録『九葉実録』元治元年(1864)2月11日条に、大村藩は外海に7箇所の台場を設けていたが、外国船の標的となるため、瀬戸村の2箇所を除いて廃止し、外海(五島灘)と内海(大村湾)間の要地である伊ノ浦への砲台新設を幕府に申請した記事がある。また、同年4月28日条には、川内浦村の村医金森有慶が砲台建築資金献上の功績で耕地一反を与えられている。

この台場設置は、生麦事件が原因でイギリス艦隊と薩摩藩が鹿児島沖で交戦した薩英戦争、長州藩の外国船砲撃の報復措置として発生した下関事件など、諸外国との緊張関係の高まりがその背景にあったと考えられる。

3箇所の台場のうち、第1台場は、西彼町小迎郷字双川谷(西海橋の橋脚付近)に高さ5mの石垣が残る。
(左の写真参照)
第2台場は西彼町伊ノ浦郷字汐見(弁天島対岸の丘)に、第3台場は、伊ノ浦郷字伊ノ浦にあったと推測されている。
< 所 在 地 > 西海市西彼町小迎郷95番地1ほか
志田三郎の墓(市指定)  1994年(平成6年)12月12日


志田三郎は八木原氏に仕え、刎木城を拠点にした人物と考えており、西彼町八木原郷のほかに、長崎市琴海長浦町、西海市西彼町中山郷および亀浦郷に伝承がある。

『郷村記』の「八木原村」に刎木城として志田三郎儀憲の墓の記事がある。それによれば、1間(約1.82m)4方の塚の周辺に温石の石塔が数多くあり、そのうちの一塔に「在志趣者三從公禪尼、應仁三天巳(丑)二月彼岸中日」との刻字があるとする。

平成8年、志田三郎を祭る祠の改修工事中に康正4年(1463)と上記『郷村記』の記事にある応仁3年(1469)の記念銘がある2基を含む五輪塔や宝篋印塔の基礎部分計37基が発見された。その中の五輪塔の地輪に「海夫」「道浦」の陰刻がある。
「海夫」とは平安時代以降、漁労・運搬を生業とした海民を指し、家船(えぶね)の後裔ともいわれ、西彼杵半島で制作された滑石製石鍋の広域的運搬へのかかわりが推測されている。
< 所 在 地 > 西海市西彼町八木原郷1745番地3

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